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   <title>ねぇムーミン？</title>
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   <subtitle>会いに行きたいなー。</subtitle>
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   <title>同じ気温と水温で感じ方がちがうのは？</title>
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   <published>2012-01-10T08:55:29Z</published>
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   <summary>たとえば、夏の気温の30度は、かなり暑く感じます。 ・・・ところが、風呂のお湯の...</summary>
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      たとえば、夏の気温の30度は、かなり暑く感じます。


・・・ところが、風呂のお湯の30度はぬるく感じます。


同じ30度なのに、どうしてこんなに感じがちがうのでしょう。


これは、空気と水の熱伝導度の差によって説明できます。


空気は熱を非常に伝えにくく、熱に対する絶縁体といっていいほどです。


これに対して、水は、空気の約20倍も熱を伝える能力があります。


私たちのからだの表面には、いつも空気の動かない層が残っていて、それが邪魔をして、気温は30度でも、皮膚の表面の温度は30度よりもずっとあります。


ところがお湯に入ると、皮膚の温度はすぐ30度近くになるので、30度の湯はぬるく感じるわけです。



      
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   <title>谷川の水はなぜ飲んでも安全？</title>
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   <published>2011-12-24T08:54:58Z</published>
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      ハイキングや登山に行くと、よく谷川の水を飲むことがあります。


天然の、消毒されていない水なのに、なぜ谷川の水は飲んでも腹痛を起こすこともなく、安全なのでしょう。


・・・確かに、川の水は何でも溶かすので、汚れ、細菌や微生物もたくさんいるはずです。


しかし、谷川の水は自然の不思議な力によって、たえず浄化されているのです。


照りつける強い太陽の光は、水面から細菌や微生物を殺してしまいます。


また、吹き抜ける風は流れる水とよく混ざって、何でも酸化・沈澱させます。


さらに、川底の砂に混ざっているシリカ（ニ酸化珪素=水晶の粉末など）は、水に浸っているとシリカゲルになり、水の汚れをみんな吸着してしまいます。


      
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   <title>なぜ夏至の日がいちばん暑くない？</title>
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   <published>2011-11-12T08:54:27Z</published>
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      夏至の日は、1年中でいちばん昼間の長い日なのに、真夏のいちばん暑い日がそれより1カ月も遅れるのは、なぜでしょう。


・・・これは、地面が温まるのに時間がかかるためです。


確かに太陽から送られてくる光はこの日がいちばん強いのですが、地面は急には温まらず、その後も送られてくる強い光によってどんどん温度が上がります。


そして、太陽からの熱が弱まってくると、地面から逃げる熱がふえます。


この受ける熱と逃げる熱が等しくなるまで地面の温度は上がっていき、それが7月の下旬になるわけです。


東京の場合夏至の昼間は、いちばん短い冬至に比べて、4時間50分も長く、14時間35分もあります。


      
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   <title>常識の中での「反常識」　2</title>
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   <published>2011-10-11T01:39:14Z</published>
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      「反常識」という言葉をはじめて組革研で使い出したころ、参加者から「俺は共産党はきらいだ」と言う声が出ました。


「私は人間党だ」と即座に返した覚えがありますが、この人はおそらく「反体制」あたりの言葉と混同したのでしょう。


私が言う「反常識」とは、現状のあるがままの体制や条件の枠組みの中で、「人を人として」の人間観による「人びとと仕事とのかかわり合い」を求めて、その運営のしかたのある部分を、いままでと反対にしてやってみようではないか、ということです。


ちょっと反対にしただけで、いつもとは違った集団活動の状態がすぐさま生まれてきます。


おそらく、想像を超えるものになるはずです。


人間はある状況の下である症状を示しているのであって、したがって、状況が変われば別な症状を現してくるからです。


集団ともなれば、この現象はいっそう顕著です。


以下に、「反常識」のいくつかを記してみましょう。


いずれもが、きわめてリスクの少ない、間違っても大火傷をする心配のあまりない、しかも有効性を実証済みのものばかりです。


誰にでもできることですから、ぜひトライしてみてほしいのです。


「反常識」こそ、変革に不可欠の進めかたであることを実感できるに違いありません。



      
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   <title>対照群の選択</title>
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   <published>2011-09-24T01:32:25Z</published>
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   <summary> ラリー・ミッチェルソンたちは、いちじるしい研究結果に達したらしい。 不幸にして...</summary>
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      <![CDATA[
ラリー・ミッチェルソンたちは、いちじるしい研究結果に達したらしい。


不幸にして、研究の報告に多くの欠陥があります。


彼らの結果にしっかりした価値を置くことを不可能にしています。


とくに、RDSを予測するための指標をどのようにして引き出したかは、彼らの説明からは明らかでない。


このような状況は、彼らがついでそれを反証することが同じ事例を分析することによって得られることを示唆しています。


もしそうならぽ、それは分析全体を価値のないものにするでしょう。


対照群の選択も疑わしい。


対照群は二万四千の人から無作為に抽出されたらしいが、社会経済的地位、誕生の季節、地方居住、都市居住などの変数に関して、RDS群とマッチされていたならばもっとよかったでしょう。


対照群の数が非常に少なかったことも不幸です。


選択のために利用できる二万四千の人からもっと大きな集団をうることは、困難でなかったはずです。


選ばれた集団にとって、天文学的データのあるものは奇妙なものでした。


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]]>
      
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   <title>常識の中での「反常識」</title>
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   <published>2011-09-20T01:38:44Z</published>
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   <summary>「常識を破る」必要性はわかるとしても、いざそれをやるとなると、けっして容易なこと...</summary>
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      「常識を破る」必要性はわかるとしても、いざそれをやるとなると、けっして容易なことではありません。


具体的にどうしたらよいかが、わからないからです。


この種の本はいくらでもあります。


しかしそれらの多くは、その必要性を劇的成功例を下敷きにして説いたものであって、その発想プロセスは、なるほどとは思いますが、容易に自分の周囲に横すべりさせられるものではありません。


・・・破れにくいからこそ「常識」なのだとも言えます。


しかも、「常識」は論理化されうるが、それを破りうるものは、おそらく論理ではないでしょう。


論理的思考にならされてきた大人たちにとって、「破常識」は至難の業です。


そこで私は、同じことを引反常識レと言い換えています。


つまり、いつもと反対のやりかたをしてみたらどうか、ということです。


どう動いたらよいかというイメージが、いささか具体的にわいてくるのではないでしょうか。


      
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   <title>「反常識」の組織論　2</title>
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   <published>2011-08-01T01:38:09Z</published>
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   <summary>創造とは、羽目を外すことです。 変革とは、「常識」と闘ってそれを破ることです。 ...</summary>
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      創造とは、羽目を外すことです。


変革とは、「常識」と闘ってそれを破ることです。


それが、技術開発という自然科学においては是とされ、組織開発という社会科学の領域においては非とされているのはどういうことか。


そこに少し留意してみたらどうなるでしょうか。


「常識」でやっていて、それでいま思わしくないのです。


だとすれば、ちょっぴりそれを破ってみてはどうかということです。


最初から「破常識」を意識して行ったことではありませんが、その部類に入ることばかりです。


「常識」の囚われから解き放された姿をしています。


だいいち「人を人として」は、「人を道具として」という意識されざる「常識」を超えたところの人間観です。


      
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   <title>「反常識」の組織論</title>
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   <published>2011-07-05T01:37:31Z</published>
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   <summary>変革に一歩踏み出したとき、日々の場でその足を引っぱる最大の敵は、いわゆる「常識」...</summary>
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      変革に一歩踏み出したとき、日々の場でその足を引っぱる最大の敵は、いわゆる「常識」というやつです。


まことにこれは、とてつもない力を持っていて、真正面からまともにぶつかっていける相手ではありません。


しかし私はあえて、ある種の「反常識」を薦めたいのです。


「常識を破れ」は、開発的領域ではあたりまえのことです。


変革そのものを仕事とする技術開発や事業開発においては、これなくしては話になりません。


東芝などは「破常識」なるキャッチフレーズを、企業イメージの広告として使っているほどです。


ところがどうでしょう。


こと人とか組織の話になってしまうと、がぜん「常識」がのさばり出てくるのです。


それは一つの掟として、人間が社会秩序を自ら律していくために当然のことかもしれませんが、しかしあまりにも、わたしたちはその囚人になってしまっているように思えてなりません。


それに疑問を抱くことすらなく、無意識のうちにそう行動してしまっているのです。


      
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   <title>社会福祉における市町村の役割　4</title>
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   <published>2011-06-19T06:41:30Z</published>
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   <summary>一つは、ここでいう「需要」(ニーズ)は「要求・要望」(ディマンズ、住民の生の声)...</summary>
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      一つは、ここでいう「需要」(ニーズ)は「要求・要望」(ディマンズ、住民の生の声)を基礎としていますが、それと質量ともに同じものではなく、市町村が責任をもって取り組むべき、あるいは実行すべきと考える課題の総量であるという点です。


おそらく常にディマンズがニーズを上回っており、したがって、そのうちからニーズとして選定する市町村の政策的判断が問われるのです。


それは他の行政分野との関連で社会福祉をいかに重視するか、それもいかなる優先順位でどのようなやり方で取り組むかという価値判断です。


もう一つは、需要にかかわる情報をできるだけ有機的に結びつけることです。


今日、福祉と保健と医療の結合の必要が叫ばれるのも、連絡のない切れ切れの需要情報による個別行政がムダで適切さを欠いていることが明白となっているからです。


しっかりした個人情報の保護制度(条例)を実施しつつ、福祉対象者の個別需要情報を集約し、総合的な需要構造を常に把握できていることが必要です。


・・・この点ではいわゆるケース・マネジメントの手法は有効です。


      
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   <title>社会福祉における市町村の役割　3</title>
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   <published>2011-05-28T06:40:32Z</published>
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      「意見具申」において「市町村の役割重視」が打ち出された理由の一つは、市町村が「住民の福祉需要を最も把握し得る」ことでした。


市町村が身近さと現場性という特色をもっているからです。


どこに、どのような困難をもつ人がいかに暮しているか、その人ないしその人の家族はどのような要望をもっているか、そういう人は地域に現在何人いるか、また今後どのくらいのスピードで増減するか・・・


このような具体的な人に即して福祉サービスの需要を探りあて、絶えず最新で正確な情報として保有しつづけるのは市町村でなければ不可能です。


例えば現在は高齢化度を測る老年人口基準は65歳以上となっていますが、このような実態にそぐわず、あらい基準でひとくくりに老年人口化を計算してそれを計画の基礎に用いるのではなく・・・


定年が60歳で人生80年時代というならば、5年きざみでどの地区にどのくらいのスピードで何歳以上のお年寄りがどのくらい増えていくかを把握しておく必要があります。


・・・特に現在のところでは、絶対的福祉の対象となる進行性痴呆症老人の発生にともなう福祉需要は65歳以上をひとくくりにしてはとても正確には把握できないでしょう。


なお福祉需要の把握については、2つのことが重要です。



      
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   <title>社会福祉における市町村の役割　2</title>
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   <published>2011-04-28T06:39:08Z</published>
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      今後、保健と医療という最も関係の深い活動分野との連携が必要となるでしょう。


さらにいえば新たな福祉の観点で既存の自治体施策の総点検と改善が必要となるでしょう。


いま、自治体では、アメニティを視点にすえる環境管理の計画とともに普遍主義を視点にすえた地域保健福祉計画が、新たなまちづくりの根幹施策になりつつあるといっていいでしょう。


その実現には、予算配分の見直しや役所組織の再編、地域住民の新たな理解と協力の確保、さらには職員意識の改革も不可欠です。


社会福祉をめぐる自治行政は大改革の時代に入ったといえます。


福祉需要・福祉サービス・福祉資源そこで改めて市町村の役割を考える場合、整理しておくべき大切な概念が3つあるといえるでしょう。


「福祉需要」、「福祉サービス」、「福祉資源」です。


そして、この3つの概念と独任・公選の首長の存在が結び付くのです。



      
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   <title>社会福祉における市町村の役割</title>
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   <published>2011-03-28T06:34:45Z</published>
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      「精神薄弱者福祉については、他の福祉施設との連携を図る観点から指定都市の位置付けを検討するとともに、在宅福祉の推進等に関し市町村の機能の強化を積極的に進める必要がある。」


・・・このような「市町村の役割重視」にはいくつかの意味合いが含まれていますが・・・


なんといっても、生活保護以外の福祉行政についてはもはや国が全国画一的に運営する従来の方式を断念し、市町村が主体となることを認めたこと。


したがって市町村は本格的に地域における福祉需要を把握し、それに応えていく施策体系を形成しなければならなくなることです。


それは一方で、細部にわたって国の統制下にあった機関委任事務体制から抜け出ていくことを、他方で、社会福祉施策の企画と実施.運営にかかわる市町村の自立の意欲と能力が試されることを意味しているといっていいでしょう。


これは社会福祉における「市町村(「最初の政府」)の時代」の到来を告げているともいえるでしょう。


とくに保育以外はほとんど国や都道府県まかせできた町村にとっては大きな責務が加わることになります。


自治体としては、地域における福祉需要を的確に把握し、それに必要かつ十分に応えうるようなシステムを構想し、動かしていかなければならなくなりました。


      
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   <title>新技術は生産コストに見合うか　6</title>
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      遺伝子に目的の仕事をさせるうえでの基本的な問題は、すでにその多くが克服されています。


問うべきことがらは「可能かどうか」か「やってみる価値があるかどうか」へと移ってきたからです。


技術上の問題がすでに過去のものとなったというのではありません。


大腸菌に簡単なタンパク質をつくらせるといった比較的簡単な遺伝子操作でさえも、ときとして思いもよらない障壁に出くわして、計画が著しく困難になったりすることもあります。


また、頓挫したりすることも・・・。


しかし、今では頼るべき豊富な経験があります。


信頼できる手法を用いれば、計画がうまくいく可能性は高いのです。


次の問題はもちろん、それが引き合うかどうかです。


産業にかかわる遺伝子工学の将来については、経済上の問題とともに、一連の法律上の問題ももちあがります。


遺伝子操作を産業プロセスに応用するプロジェクトのどれを実行に移すかの決定に際して、このような問題の重要性がますます大きくなっています。


最初に持ち上がったのは、安全性の問題です。


1975年当時、安全性は人々の心を占める関心事の最たるものでした。


というのは、この新しい技術がどのような力を秘めているのか、誰にもよくわからなかったからです。


組み換え遺伝子実験の一時的な棚上げ状態の中で、すべての研究はしばらくの間中止され、その後、研究はすべて密閉された実験室の中で行うことが義務づけられました。


その室のなかで、組み換え遺伝子はプルトニウム並に注意深く管理されたのです。



      
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   <title>新技術は生産コストに見合うか　5</title>
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      現在、プルティーンは収支とんとんの製品にすぎませんが、石油価格が1986年初期の低レベルを維持するか、あるいは米国の農業コストが大幅に上昇した場合には、状況が一変する可能性があります。


同様なことは、他の多くの潜在的な製品についてもいえます。


遺伝子操作細菌によるリジンなどのアミノ酸の生産は、現在、他の製法よりも有利とはいえませんが、国際化学品市場がわずかに変移しただけでも、この状況は変わる可能性もあります。


リジンなどのアミノ酸の最大の生産国は日本ですが、新しい技術がもうかるとなれば、ただちに乗り出してくるでしょう。


マイクロチップ業界でも行動が、それを物語っています。


他の製品も、専門市場の需要を満たすだけの量が生産されているにすぎません。


100万トン規模のDNAリガーゼ市場は存在しません。


しかし、遺伝子工学および操作された細菌を利用する化学工学の両技術は、成熟の域に近づいています。


石油価格のわずかな変化、またはちょっとした技術の進展があれば、量産品の製法としての遺伝子操作が経済的に引き合うものになってくるでしょう。


遺伝子組み換えの奥義が金銭へと話がずれてきたようです。


しかし、これは避けられないことなのです。



      
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   <title>新技術は生産コストに見合うか　4</title>
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      ICI社は、すでに豊富な経験を有している化学プロセスに細菌を利用するという長期プロジェクトの一環として、最適細菌を発見する作業に遺伝子工学技術を駆使しました。


しかし、長年にわたり大規模化学施設を操業してきた実績がなければ、このプロジェクトに成算はなかったでしょう。


実際、同社のプラントは年間生産量100万トン以下のごく小規模のものでしたが、投資総額は5000万ポンドに達する複雑な事業でした。


細菌を培養する中央容器のコストだけでも750万ポンドです。


そこに細菌を送り入れ、家畜用飼料に変える「下流」の処理設備に培養物を送り出すバルブや配管類はすべてコンピューターで制御する必要がありました。


ICI社は、このプラントの操業を採算点ぎりぎりと見ています。


その理由として、巨額な研究投資（14年間にわたり、さらに4000万ポンド）、エネルギーとメタノールのコスト増を招いた、プロジェクト期間中の石油価格の上昇、政治上の問題などをあげています。


プルティーンは米国の大豆系飼料と直接競合します。


1970年代の後半、ICI社はもっと大規模のプラントを建設する許可を求めて運動を展開しました。


そのとき、カーター大統領が1980年の大統領選を前にして絶対に推奨したくなかったものは、彼の地元の主要農作物のひとつに競合する製品でした。



      
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